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教室の沿革
笹川三男三講師
教室の沿革
皮膚科泌尿器科学教室としての歴史は、大正9(1920)年6月16日、当時未だ未完成の病院外来において、講師笹川三男三みおぞう(当時東京慈恵会医院医学校皮膚科学講座初代教授)および助手8名が初会合を開いたときに始まった。診療開始は同年8月3日であり、当日の新患者数はわずか2名にすぎなかったという記録が残っている。皮膚科学の開講は、大正10年4月で、講師笹川三男三がその任にあたったが翌11年に初代教授笹川正男を迎えた。
以来、長い歴史をともに歩んできた皮膚科泌尿器科学教室は、昭和38(1963)年4月1日を期して分離し、それぞれ独立した教室として再発足し、現在に至っている。ここでは旧教室の皮膚科担当教授の初代教授笹川から、現在の第5代教授天谷雅行までの教室の活動を中心に振り返ってみることにした。
笹川正男教授(初代)
⑴笹川正男教授(大正11年〜昭和7年)
大正11年6月に、長崎医学専門学校皮膚科泌尿器科教室2代目教授で欧州留学から帰国した笹川が北里柴三郎医学部長の推挙により皮膚科泌尿器科学教室の皮膚科担当教授に就任した。笹川は、皮膚科泌尿器科学教室の黎明期を支え、大正12年9月1日に発生した関東大震災による甚大な被害にもかかわらず、大学施設の復興に貢献し、教室を発展させた。大正15年1月には、助教授北川正惇が新たに泌尿器科担当教授に就任し、各大学に先んじて泌尿器科講座運営を独立せしめた。教室設立10年間において、多くの貴重な症例を集積し、皮疹を蠟模型としたムラージュ538体を有していた。ムラージュとは、皮膚疾患の教育を目的として、石膏で取った患部の型に蝋を流し込んで作成したものに色付けをして精巧に仕上げられた模型である。現在では、カラー写真などの記録技術によりその役割は終えているものの、その技術は、蝋人形、レストランの前に飾る蝋細工物などに生かされている。当時、皮膚科には専属のムラージュ師がおり、その高い技術力は、慶應義塾の皮膚科診療と教育を根底から支えるものであった。特に、宇野一洋(日本の初代伊藤有のもとで技術を習得)は画才にも恵まれ、請われて北里記念医学図書館第一会議室に展示されている福澤諭吉、北里柴三郎の肖像画を残している。当時笹川は一種の人工毛植毛(毛幹挿入法)に興味を持ち研究発表もしている。笹川は昭和6年より尿毒症で加療中であったが同年9月20日逝去した。
かたし
横山硈教授(第2代)
⑵ 横山硈教授(昭和9年〜35年)
横山硈は大正7年京都府立医学専門学校卒業後、直ちに東京帝国大学衛生学黴菌学教室に入り、2年間細菌学を学んだ。大正9年より本学皮膚科泌尿器科学教室に入室、昭和7年笹川の逝去時は助教授であった。翌8年には、約11カ月にわたり皮膚科学を視察のため慶應義塾より欧米出張を命ぜられ、帰国後昭和9年4月に教授に就任した。以来、横山が皮膚科学を、北川が泌尿器科学を講じた。横山のもと、皮膚科泌尿器科学教室の諸施設は漸次拡張され、食養研究所に通じる病院本館2階に、受付、患者待合室、皮膚科初診室、皮膚科再来診察室、泌尿器科初診室、泌尿器科再来診察室、皮膚科泌尿器科注射および包帯交換室、準備室、手術室、教授室、助教授・講師室兼図書館、ムラージュ室、研究室などが整備された。しかし、第2次世界大戦の戦禍により、昭和20年5月これらの教室施設の多くは惜しくも焼失し、わずかに食養研究所内に離れてあったワッセルマン反応検査室のみが残されたにすぎなかった。しかし、罹災1カ月前、診療に要する諸設備を別館に移動しておいたことが幸いして、細々ながら診療を続けることが可能であった。
横山は、戦後の教室再建への厳しい道程を歩むことになる。昭和24年11月、焼跡に新築された木造病院本館落成に伴い、外来、医局、受付などがその2階に移転し、以来十有余年そこで診療が行われた。昭和21年2月、横山・田村共著の『皮膚科教本』(4版から皮膚科学)が鳳鳴堂書店より出版された。また、横山の臨床講義は多くの皮膚科医の教育に影響を与え、昭和38年になって、横山教授臨床講義集が編纂されるなど、日本の臨床皮膚科学の発展に大きく貢献した。横山は昭和35年9月19日脳軟化症にて逝去した。
ひとし
籏野倫教授(第3代)
⑶籏野倫教授(昭和36年〜55年)
昭和36年1月助教授であった籏野倫が教授就任、同年4月から長島正治が講師となり、皮膚科学を担当することになった。昭和37年からは皮膚科泌尿器科の分離に備え山藤正夫医局長(泌尿器科担当)のほかに副医局長として山本一哉が皮膚科を担当した。そして、昭和38年4月1日、皮膚科、泌尿器科両教室が分離独立した。皮膚科教室員は、教授籏野以下24名(在局者13、出向者7、大学院生4)であった。皮膚科外来は、昭和40年に完成した1号棟3階にて、受付、予診室、初診室、治療室、検査室、教材室兼図書室よりなり、手狭であるも、木造本館時代と比べれば昔日の感があった。皮膚科外来初診患者数は、大正10年に年間3,987人であったが、昭和38年皮膚科学教室発足当時には、9,385人と増加し、昭和41年には1万582人と年間1万人を突破した。病棟は、6号棟1階(14床)、中央棟3階小児病棟(1床)、1号棟4階(個室1床)の合計16床であったが、ほぼ満床での運用であった。
籏野の主催する皮膚科学教室は、多様な皮膚疾患をその皮疹の形態から分類し、理解する記載皮膚科学を推進し、日本の皮膚科学の発展に大きく寄与した。日常の診療録(カルテ)は、ラテン語、ドイツ語で主に記載されていた。特に皮膚科医必読の『臨床皮膚科』あるいは『標準皮膚科学』の編集者として、皮膚科医・医学生の教育に大きな貢献をした。記載皮膚科学推進の流れを受けて、長島(のちに杏林大学教授)は、色素性痒疹(prurigo pigmentosa)、長島型掌蹠角化症など、新しい疾患概念を樹立した。さらに、籏野は、教室外で活躍の場を広げ、教室の発展に大きく貢献している。昭和50年慶應義塾大学病院長、同53年慶應義塾評議員、同54年慶應義塾大学院医学研究科委員長、昭和55年慶應義塾を退職、名誉教授となり、同年国立埼玉病院長、同57年国立東京第二病院(現国立病院機構東京医療センター)病院長を経て、同60年退職後は東京医療センター名誉院長となった。同52年日本皮膚科学会会頭、同56年日本研究皮膚科学会会頭を務める。また、難病政策の基盤づくりを含めた数多くの省庁関連の公的役割を担い、昭和48年厚生省特定疾患(難病)調査研究班班長、昭和51年文部省学術審議会専門委員、昭和52年中央薬事審議会常任部会委員などを歴任した。これらの貢献により平成4年勲二等瑞宝章を受章した。籏野は平成22年9月16日心不全のため、91歳で逝去した。
西川武二教授(第4代)
⑷西川武二教授(昭和57年〜平成17年)
昭和55年5月籏野が国立埼玉病院長として転出し、教室主任代行を西川武二、診療科部長代行を加茂紘一郎、学務委員代行を北村啓次郎が約2年半務めた。昭和57年10月から、西川が皮膚科学教授に就任した。以来、平成17年3月まで教室主任として皮膚科診療部長を兼任した。西川の在任中、昭和62年5月から2号館2階に皮膚科外来が移り、処方、検査などを電子的にオーダーするシステムによる診療が開始された。また、平成2年9月より教室機能、研究室機能が一体となり、2号棟3階で活動を開始した。食養研究所3階の皮膚科研究室も同年11月から2号棟3階に移り、皮膚科病棟は6号棟2階へ移転、助教授・講師室は別館3階へ移転となった。また、平成13年に竣工した総合医科学研究棟内にリサーチパーク1ユニットが自己免疫疾患病態解明プロジェクトとして採用された。
西川は、「記載皮膚科学が皮膚科の原点として重要である」という基盤をもとに、「記載皮膚科学から病態皮膚科学、分子皮膚科学へ」と進化させ、国際的にも高く評価される教室へと発展させ、多くの人材を引きつけ、そして育成した。同時に学外、国外あるいは化粧品業界からの研究者とも共同研究を積極的に行った。
西川は、真菌症、自己免疫性水疱症、皮膚膠原病、日本独自の皮膚疾患を専門とし、数多くの後世に残る業績を上げている。橋本隆(のちに久留米大学教授)らとともに、通常IgG自己抗体により誘導される天疱瘡の類縁疾患として、IgA自己抗体により誘導される細胞間IgA皮膚症(IgA天疱瘡)を世界に先駆けて記載し、その標的抗原の一つをデスモコリン1であると同定した。清水宏(のちに北海道大学教授)とともに、免疫電子顕微鏡の技術を用いて、類天疱瘡抗原、後天性表皮水疱症抗原の超微細局在を決定した。さらに、天谷らとともに、天疱瘡に対して組み換え蛋白抗原を用いた血清学的診断法(ELISA)を開発した。同ELISAは、日本では平成15年に保険収載され、国際的にも診断、病勢評価に広く使用されている。さらに、原田敬之(のちの東京女子医科大学附属第二病院教授)、仲弥は真菌症、多島新吾(のちの防衛医大教授)は真皮、特にエラスチンの生化学、分子生物学、田中勝(のちの東京女子医科大学東医療センター教授)はダーモスコピーを用いたデジタル診断学の発展など、にそれぞれ貢献し、幅広い学術活動を展開した。
西川の学会での活動は幅広く、平成7年第39回日本医真菌学会会頭、平成13年第100回日本皮膚科学会会頭を務め、その際には第100回開催の記念切手が発行された。さらに、平成4年から3期(15年)の間、国際皮膚科学連合(ILDS)理事、2期目は同事務局長として、世界の皮膚科学会を先導する役割を果たした。
また、教授在任中は世界各国の皮膚科教室・皮膚科学会との交流を図り、平成3年5月オーストリア皮膚性病学会のヘブラ記念講演、平成10年7月英国皮膚科学会のルック記念講演ほかに招かれるなど、わが国の皮膚科の国際化に貢献し、平成16年慶應義塾賞を受賞した。平成17年3月定年退職、慶應義塾大学名誉教授となり、同年5月から教室の同僚松尾聿朗(元帝京大学市原病院教授)と左門町皮膚科を開業し、現在に至っている。
天谷雅行教授(第5代)
現在の臨床・研究・教育
天谷雅行教授(平成17年〜現在)
天谷は、偉大な先代らにより蓄積された「強い臨床と深い研究」の伝統をさらに発展させ、「多様性を重視し、Communicationを大切にし、人を育てる場」を提供し、「創知育成」をスローガンとして、教室運営を行っている。
平成3年、米国NIH、John R. Stanley博士の研究室に留学中、尋常性天疱瘡抗原cDNAの単離に成功し、デスモグレイン3(Dsg3)であることを明らかにした。平成12年、ブドウ球菌性熱傷様皮膚症候群(SSSS)を誘導する黄色ブドウ球菌表皮剥奪性毒素はデスモグレイン1を切断する酵素であることを解明し、また、自己抗原欠損マウスを利用する独自の方法を用いて、天疱瘡モデルマウスの作成に成功した。平成25年より、理化学研究所統合生命医科学研究センターチームリーダーを兼務し、基礎研究領域の幅を広げ、活動している。平成28年、米国National Academy of Medicine国際会員に選出された。平成29年10月より、慶應義塾大学医学部長に就任している。平成30年より日本皮膚科学会理事長に就任し、2020年第119回日本皮膚科学会総会会頭を務めた。本総会は、新型コロナウイルス感染症(COVID—19)のパンデミックにより、史上初の完全WEB開催となった。
臨床:皮膚に起こるすべての疾患を対象とする方針のもと、幅広く皮膚疾患全般にわたり対応できる体制で診療を行っている。外来では、午前中の初診、再診に加え、午後には自己免疫性水疱症、アトピー性皮膚炎、乾癬、遺伝性疾患、アレルギー・薬疹、腫瘍、毛髪、爪、レーザー、皮膚膠原病など様々な専門外来を運用している。興味深い症例、診断困難例に関しては、生検後に、患者さんの皮疹を実際に診察し、諸検査結果と併せて、教室員全員で討議して、診断、治療方針を決めるカンファレンスを施行している。稀少遺伝性疾患、未診断症例に対して、全エクソーム解析など遺伝子解析を行っている。病棟では、必要な診療科と連携をし、天疱瘡、類天疱瘡などの自己免疫性水疱症、メラノーマなどの皮膚悪性腫瘍など、重症疾患を全身管理ができる体制で診療している。主な病棟は、6号棟2階、2号館6S 病棟と移りわたり、1号館完成後10階において16〜20床前後で運用している。年間60〜70件の全身麻酔下手術を行っている。のちに述べる臨床研究が牽引役となり、診療圏は全国区となっている。
研究:基礎・臨床の両面において、国際レベルのインパクトの高い研究成果を上げるべく、研究活動を展開している。西川の時代より脈々と続いている天疱瘡病態解明に関する研究において、天疱瘡モデルマウスより病原性を持つ天疱瘡モノクローナル抗体の単離(角田和之ら)、Dsg3特異的T細胞クローンの単離、ならびに表皮自己抗原に対する細胞性免疫によるInterfaceDermatitisの病態解明(高橋勇人ら)など成果を上げ、抗原特異的な免疫抑制療法の開発に向けて研究を継続している。皮膚バリア機能に関する研究において、表皮ランゲルハンス細胞は樹状突起をタイトジャンクションの外に伸ばして外来抗原を捕捉するという免疫現象の発見(久保亮治ら)、外的刺激により毛嚢が免疫センサーとしてケモカインを産生するという毛嚢免疫機能の発見(永尾圭介ら)、iPS細胞を用いたヒト毛嚢への分化誘導(大山学ら)、長島型掌蹠角化症の原因遺伝子の同定、表皮顆粒層細胞が自然とケルビン14面体の形態をとることを提示するなど、数多くの成果を出している。
臨床研究に関しては、平成28年慶應義塾大学病院が臨床研究中核病院として認定されたこともあり、様々な臨床研究が展開されている。多施設共同医師主導治験として、難治性天疱瘡に対するリツキシマブ(抗CD20モノクローナル抗体)の効果検証(山上淳ら)、再生医療等新法に関連する臨床試験として悪性黒色腫に対するTIL療法の効果評価(舩越建ら)、アトピー性皮膚炎に関与する皮膚細菌叢の解析、免疫学的、病理学的、遺伝学的情報など医療情報ビックデータを用いた解析(海老原全、川崎洋ら)、皮膚、全身性エリテマトーデスに対するヒドロキシクロロキンの効果検証(谷川瑛子ら)、巻き爪に対する矯正治療法の新規開発(齋藤昌孝ら)など、幅広く展開されている。
教育:教室運営において最も大切な活動が教育であり、人を育てることである。歴代受け継がれたこの伝統に基づき、多くの教室員が育っていった。多様性を重んじ、全国から様々な人材を受け入れ、教室員一人ひとりが優れた皮膚科医になるべく日夜努力している。学部学生に関しては、系統講義に加え、実習(ポリクリ)が6年次に2週間実施される。外来では、初診患者からの病歴聴取と初診外来の見学を主に行い、病棟では、病棟医とともに行動するのみならず、担当症例に関してレポート作成を行う。実習期間中は皮膚科スタッフによるミニレクチャーが連日行われ、皮膚科学の基礎・臨床・研究分野を幅広く学べる。初期臨床研修(2年間)に関しては、1 ~ 2カ月の期間で選択されることが多く、外来では様々な皮膚疾患の診断から治療までのプロセスを理解し、皮膚生検の手技の修得、さらには臨床カンファレンスでのプレゼンテーションを行う。病棟ではチームに所属し、担当症例の原因精査ならびに治療を通じて、皮膚科学的視点を養う。
専修医研修(5年間)において皮膚科を選択すると、教室に入室することになる。平成16年に医師臨床研修制度が導入されて以来、年間7〜8名の専修医が入室している。50以上のクルズスを含めた大学での基本的な皮膚科研修ののち、東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡の20施設以上の地域医療を担っている関連病院にて、より実地的な研修を2〜3年行い、その後大学に戻り上級医としてさらに専門的な研修を行う。他の施設に例を見ない関連病院、大学が一体となった教育が行われている。
また、国際的視野に基づく人材育成を行っており、留学者を多く輩出し、国際的に活躍する教室員も多く、海外からの留学生も積極的に受け入れ、国際的医学者との交流も盛んに行われている。平成10年より米国ペンシルベニア大学とは、John R. Stanley博士の発案により、ほぼ毎年スタッフ、レジデントが2週間程度短期滞在する交流プログラムが行われ、平成29年までに双方合わせて25名以上が交流を深めている。
他大学、他施設の教授、部門長になった皮膚科学教室出身者
(旧皮膚科泌尿器科学教室を含む)